『ノートルダムの鐘』のジプシー達〜『カルメン』との比較から〜@四季劇場[秋] 2017-2-5M
この記事で言う『カルメン』はビゼーのオペラ、『ノートルダムの鐘』はミュージカル版の話です。2作品とも原作未読のため頓珍漢なこと言ってるかもですがただ私がなんとなく感じただけの話、とだけ。
チケット無い無いと嘆いていたら1ヶ月が経っていた。
前日に上野でオペラ『カルメン』を観たばかりのタイミングで、ジプシーの描かれ方がノートルダムとは真逆に感じたことから、改めて自由とは?とか、人間の内面とか、色々と考える観劇だった。たまたまタイミング重なっただけなんだけど。
知識は乏しいけど無い頭で考えたことを、素直に書きたい。
『カルメン』に出てくるジプシー(カルメン達)はアウトローな生き方をしていたり、それこそ“魔術”のように男を誘惑したり、というイメージだけど、カルメンに限らずいろんな作品で当たり前のようにジプシー=得体の知れないものとして描かれているし、ジプシーのパブリックイメージはそうだと思う、違うかな?少なくとも私はそう思ってた。ノートルダムを観るまで。
カルメンがとことん「私は縛られない」「愛はジプシーの申し子」「自由」とか、肉欲的で危険な香りをゴリ推してくるおかげで、逆にノートルダムでのジプシー達の描かれ方に目が向きました。
まあノートルダムでもエスメラルダは妖艶な女性というポジションで登場するし、少なくともフロローにとっても得体の知れない存在だったし、多くの民衆にとっても同じだったはずなんだけど。
でもノートルダムは、ジプシーも“ただの人間”として描かれている作品だと思う。*1
そう感じさせる最大の要因は、よしつぐクロパン。
「今度こそ何年かは落ち着けると思ってたのに」は、クロパンを象徴する台詞だと思っている、個人的には。
ここに限らず、よしつぐクロパンのスレた感じとか人生に疲弊した感じとかが台詞の端々から滲み出ているところから、人格形成に至るまでが透けて見えるようで、
ノートルダムに登場するジプシー達にある“自由”は、監獄かもしれない。自由に縛られる自由。
と感じた。
境遇が境遇だから警戒心バリバリで生きてるけど、フィーバスへの態度を見ていると本来は懐の広い良い人なんだろうなと思うので。エスメラルダのことも見捨てないし。むしろ皆んなの面倒を見る大家族オカンにすら見える。きせきごてんのシーンで「どういうことかわかってんのか〜」*2的な台詞を言いながら登場するクロパンの腰に使い古しのダサいエプロンが巻かれているのが見える。(幻覚)
(過去記事引用で済ませるズボラっぷり)
「境遇が境遇だから」と言うと「卵が先か鶏が先か」な話になってしまうけど、少なくともどんな人でも“どこにでもいる普通の人間”として様々な思いを抱えているのは当たり前のことなんだよなぁと改めて感じて、月並みなことなんだけど、心に刺さった。やっぱりクロパンにも舌舐めずりしながらヤバいことしてるイメージがあったから。最初は。
「ルールに従うのってあんまり得意じゃないの」(エスメラルダ)
これも、ジプシーのステレオタイプ的な台詞として捉えていた、でも角度を変えると少し悲しい響きを持って聞こえてくる。ルール通りでは生き抜けなかった人生。原語はわからないけど「得意」ではない、という言葉のチョイスも、少し考えさせられてしまう。
「どこに違いがあるのだろう」という主題が作品を貫いているのを、改めて感じた。
(結局出た結論がそれ今更かよになってしまった(笑))
ジプシーについてはもちろん、実際にはよくないひとが多いのもわかるんだけどね(よろっぱ行ったとき注意喚起されたし)。
うーん、全然上手く書けない…伝わらない…
あ、カルメンとエスメラルダは愛は自由なまま死んでいった点において共通しているとは思う。愛だけは自由。
その他ちょこちょこ感想
岡村エスメラルダと清水フィーバスはレジスタンス的な意志の強さのイメージが強め(おぼろげな記憶)、佐久間フィーバスと宮田エスメラルダは運命に翻弄されながらも静かに平和への祈りを捧げる儚さが切ない、と思う
— @hksw01 (@hksw01) 2017年2月5日
(サムデイの話)
- 達郎カジモドのメイドオブストーン以降の歌声は、まさに熱い鉛のようだなと思う。ドロドロしたものが容赦なく降りかかる。
- 野中フロローの炎は青火。外見ではわからない静かさで、その実温度が危険。
1ミリもまとまってないけど以上です。
ちなみに散々クロパンについて語ってるけどワイスクロパンまだ観れてないでーす\(^o^)/
*1:“ただの人間”という描き方は、ピュアだが闇落ちするカジモドや、エスメに怪物と言われるようになるフロローについても同様に