王子とこじき@サクラートたどつ(多度津町) 2017-2-18
珍しく現場前に観光したので(前記事)、いろいろあって記憶があまり残っていない。ので印象深かったところを掻い摘んで。
小豆島ね〜まじでマイルスナンバーを口ずさみたくなる島だった、人通りも少ないから普通に口ずさんでた(不審者)、最高に気持ち良かった〜。
というのは置いておいて。
「信じられないのです」のくだり
今回の公演で一番印象深かったのが、このシーン。
涼太マイルスさん、全然、言いづらそうにするでもなく、まるで取るに足らないことのように言ったの。無理と言うものですよ、と。大事なことだけど大したことのない問題、というノリで。あくまで暖かく軽やかに。
それはエドワードへの気遣いだったと思う。とっくに見通されていると感じていたのもあるかもしれない、とも思う。
そして実際に、その頃には取るに足らない事実になっていたのだろうな。と感じられる言い方だった。
それを受けての小松エドワードも、「そう言われても腹が立たない」どころか、むしろ嬉しそうですらあって。すごくスッキリした顔で「この格好じゃ、そうなんだろうな」を言ってて。マイルスにそう思われているのは肌で感じていて、なのに変わらず全幅の信頼を置いてくるマイルスだから、やっと打ち明けてくれてホッとしたのかな、と思うと胸が熱くなる。物語の根幹もそこにあると思う。
(無意識だと思うんだけどね、無意識が見えるお芝居って胸を掴まれるよね。)
エドワードはこれまで、王子という「身分」によってのみ信頼されてきたのだろうと思うから。生身の自分を信頼してくれたのは母と父(と一応トムも)だけで、だからこそ“暴君”ヘンリー8世だったとしても、こだわり続けていたのだと思うし。
ほんと、ここに来るまでに、2人の信頼関係における壁は「信じられないのです」の件だけになってたんだろうな、と感じられる雰囲気で、すごく良かった。まあそうでもなければ鞭打ち身代わりしないし伯爵の位も授けないわな。
ほんと、良かった。深まる〜。一つの正解を見た気がする。正解は一つではないが。現時点の小松エドワードと涼太マイルスとしての正解を。まあ妄想だけど〜!
しかし1幕の小松さんは心配になってしまった、2幕は持ち直してグーン行ったから不調ではないと思うけど…ただ、このパターンはこないだもだった気がするので、意図的なものなのかもしれない?私が読み取れていないだけなのかもしれない。
実際そのせいでか、1幕木内トムとの関係性が原作寄りになった気がした。トムの前で子どもらしい笑顔を見せるところは相変わらずだけど、身分差の意識も少なからず感じるというか…それは本当に薄っすらとだけだったんだけど。
その印象を濃くしたのは、「エドワード6世陛下の誕生です」でガバッと顔をあげた時の表情。
いつだったかこのシーンで「自分のせいでトムを巻き込んでしまった!」という自分に対する責めの表情をしていたけど、
今回は憤りが見えたというか。立場・居場所を奪われることへの憤怒。これがトムに対してなのかはわからないけど、個人的な直感としては、トムに裏切られたような、疑うような心持ちに見えた。トム悪くないんだけど。
父が亡くなったタイミングだから、このときエドワードが縋れるものは「身分」だけになってしまったように感じたのかもしれない。だからこそ立場を奪われることに敏感になっていたのかな、と、そんなことを考えた。
しかし、2幕、ほんと、素晴らしかったと思う👏🏻
某さんが小道具ヒュンッッッと吹っ飛ばした以外は。(笑)
高瀬泥棒ちゃんはユーゴーに拾われず野放しになってたら泥棒より酷い道に進んでいた気がするので、ユーゴーに拾われて良かった。(そもそも拾われた云々が私の妄想)
年齢設定が低めに見える1枠泥棒ちゃんは、酷い目に遭わされたときに理由も理解できずに「どうして?」とただ苦しくて悔しかったんじゃないかなと思わされるので、泥棒としてのキュートで邪悪な笑みと、社会的弱者としてのやるせなさが表裏一体なのが非常に辛い。
あ、高瀬泥棒ちゃんはまた鶏をガウガウしていた。というか、高橋徹アダがガウガウしやすい位置にしてくれてるっぽい?ので、やらかしたのは許しま〜す!
以上。
おじこじおばさん、香川へ行く
うどん県へ行ってきた。
しかし2日間とも温泉でのんびりし過ぎてそんなに色々は回れなかったね!
※旅ブログです。
- 香川到着
7時半ごろ、夜行バスで到着。所要時間14時間。名古屋行きの倍かかるけど、ぐっすり寝られるので遠い方が嬉しい。天気は曇り。
8時ごろ。高松駅の改札内にある『連絡船うどん』にて、とりあえずうどん。味的には、駅近くでササッと食べたい人的には良いと思った。
栗林と書いて≪りつりん≫と読むの、長万部もビックリだよ。ミシュラン観光ガイドの「わざわざ訪れる価値のある場所」三ツ星らしい。
真ん中のは、英国王エドワード8世のお手植松だそう。エドワードと言ってもおじこじ元ネタのエドワード6世とは繋がりないっぽ。
『吹上亭』にて
焼き団子。味噌が塗ってあり、しょっぱいもの好き歓喜。
公園を一望できる『飛来峰』に着いたころ、ちょうど晴れてきた🌞
- 仏生山温泉
ブッショウザン。強そう。
琴平温泉郷に行くつもりだったんだけど遠いな〜ってなって、仏生山はちょうど途中駅だったので降りちゃった。一人旅はテキトーにやれるからいい。何を隠そう根性なしである。
温泉内もオシャンでした。プチ中庭を囲むように浴槽がある感じ。空が見えて開放的。
ファミミュ前に飲酒キメる背徳感フゥゥ〜☝️☝️
温泉でのんびりし過ぎて気付いたら現場行く時間に。
- 今回の会場 サクラートたどつ(多度津町)
感想はあとで
2日目
- フェリーで小豆島へ
の前に「讃岐うどん モーニングセット」
高松港から。
綺麗に晴れてくれた。まさしく瀬戸内海式気候!1時間ほどで小豆島・土庄港到着。
- エンジェルロード
土庄港からバスで十数分。
展望台への階段がキツくて滑りそうすぎておっかないので靴まじ気をつけた方がいい。
- お昼は醤(ひしお)そば
エンジェルロード近くにあるお店で。海が見えるテーブル席もあった。小豆島は醤油づくりが盛んらしい。醤の郷も行くか迷ったんだけど。
- オリーブビーチ
「天然!お山の上は5度涼しい」でなんとなくジワった。語呂が良い。寒霞渓も行きたかったけどバスが冬季休業?でな〜。
- オリーブ公園
ギリシャ風車
どうでもいいけどギリシャと風車で韻踏める。
- サン・オリーブ温泉
の写真はないんだけど。
こんな感じの景色が、温泉に浸かりながら見えて。何時間でもいられそうだった。
- 草壁港
オリーブ公園口からバスで5分。ここから再び高松へ。
建物撮り忘れたけど、こちらもギリシャ風。ギリシャのミロス島と小豆島は姉妹島提携を結んでいるから?、オリーブ公園や道の駅にもミロのヴィーナスがあったりギリシャ風の広場があったり建物が基本白だったり。
- 再びの高松
帰りは空路。
セルフ式でキョドッてしまった。お味は、蒸せ返るレモンの香りにより、もちもちしたレモンを食べてるみたいだった。いや、美味しかったっす。
要潤さん ちーっす
使用機都合で30分の遅延が確定していたので、暇つぶしに買ってみた。美味しかったのでまとめ買いしておけば良かったな。
という感じで帰ってきた。内陸育ち&厳しい気候で育ったので瀬戸内海への漠然とした憧れは強かったんだけど、やっぱりいいな!楽しかった!以上!
『ノートルダムの鐘』のジプシー達〜『カルメン』との比較から〜@四季劇場[秋] 2017-2-5M
この記事で言う『カルメン』はビゼーのオペラ、『ノートルダムの鐘』はミュージカル版の話です。2作品とも原作未読のため頓珍漢なこと言ってるかもですがただ私がなんとなく感じただけの話、とだけ。
チケット無い無いと嘆いていたら1ヶ月が経っていた。
前日に上野でオペラ『カルメン』を観たばかりのタイミングで、ジプシーの描かれ方がノートルダムとは真逆に感じたことから、改めて自由とは?とか、人間の内面とか、色々と考える観劇だった。たまたまタイミング重なっただけなんだけど。
知識は乏しいけど無い頭で考えたことを、素直に書きたい。
『カルメン』に出てくるジプシー(カルメン達)はアウトローな生き方をしていたり、それこそ“魔術”のように男を誘惑したり、というイメージだけど、カルメンに限らずいろんな作品で当たり前のようにジプシー=得体の知れないものとして描かれているし、ジプシーのパブリックイメージはそうだと思う、違うかな?少なくとも私はそう思ってた。ノートルダムを観るまで。
カルメンがとことん「私は縛られない」「愛はジプシーの申し子」「自由」とか、肉欲的で危険な香りをゴリ推してくるおかげで、逆にノートルダムでのジプシー達の描かれ方に目が向きました。
まあノートルダムでもエスメラルダは妖艶な女性というポジションで登場するし、少なくともフロローにとっても得体の知れない存在だったし、多くの民衆にとっても同じだったはずなんだけど。
でもノートルダムは、ジプシーも“ただの人間”として描かれている作品だと思う。*1
そう感じさせる最大の要因は、よしつぐクロパン。
「今度こそ何年かは落ち着けると思ってたのに」は、クロパンを象徴する台詞だと思っている、個人的には。
ここに限らず、よしつぐクロパンのスレた感じとか人生に疲弊した感じとかが台詞の端々から滲み出ているところから、人格形成に至るまでが透けて見えるようで、
ノートルダムに登場するジプシー達にある“自由”は、監獄かもしれない。自由に縛られる自由。
と感じた。
境遇が境遇だから警戒心バリバリで生きてるけど、フィーバスへの態度を見ていると本来は懐の広い良い人なんだろうなと思うので。エスメラルダのことも見捨てないし。むしろ皆んなの面倒を見る大家族オカンにすら見える。きせきごてんのシーンで「どういうことかわかってんのか〜」*2的な台詞を言いながら登場するクロパンの腰に使い古しのダサいエプロンが巻かれているのが見える。(幻覚)
(過去記事引用で済ませるズボラっぷり)
「境遇が境遇だから」と言うと「卵が先か鶏が先か」な話になってしまうけど、少なくともどんな人でも“どこにでもいる普通の人間”として様々な思いを抱えているのは当たり前のことなんだよなぁと改めて感じて、月並みなことなんだけど、心に刺さった。やっぱりクロパンにも舌舐めずりしながらヤバいことしてるイメージがあったから。最初は。
「ルールに従うのってあんまり得意じゃないの」(エスメラルダ)
これも、ジプシーのステレオタイプ的な台詞として捉えていた、でも角度を変えると少し悲しい響きを持って聞こえてくる。ルール通りでは生き抜けなかった人生。原語はわからないけど「得意」ではない、という言葉のチョイスも、少し考えさせられてしまう。
「どこに違いがあるのだろう」という主題が作品を貫いているのを、改めて感じた。
(結局出た結論がそれ今更かよになってしまった(笑))
ジプシーについてはもちろん、実際にはよくないひとが多いのもわかるんだけどね(よろっぱ行ったとき注意喚起されたし)。
うーん、全然上手く書けない…伝わらない…
あ、カルメンとエスメラルダは愛は自由なまま死んでいった点において共通しているとは思う。愛だけは自由。
その他ちょこちょこ感想
岡村エスメラルダと清水フィーバスはレジスタンス的な意志の強さのイメージが強め(おぼろげな記憶)、佐久間フィーバスと宮田エスメラルダは運命に翻弄されながらも静かに平和への祈りを捧げる儚さが切ない、と思う
— @hksw01 (@hksw01) 2017年2月5日
(サムデイの話)
- 達郎カジモドのメイドオブストーン以降の歌声は、まさに熱い鉛のようだなと思う。ドロドロしたものが容赦なく降りかかる。
- 野中フロローの炎は青火。外見ではわからない静かさで、その実温度が危険。
1ミリもまとまってないけど以上です。
ちなみに散々クロパンについて語ってるけどワイスクロパンまだ観れてないでーす\(^o^)/
*1:“ただの人間”という描き方は、ピュアだが闇落ちするカジモドや、エスメに怪物と言われるようになるフロローについても同様に